大学生になって「ちょっとは学生らしく哲学でも学ぶっぺかね」とはじめて本格的に哲学書で取り組んだのがハイデガーでした。大学の哲学の授業を選択したら、たまたま取り扱う哲学者がハイデガーだったというだけなんすけど。で教科書がハイデガーの解説書。指定教科書で、解説書だから、基本的に分かりやすく書かれているはずですよね。しかしまーったくわからんのですわ、これが。別の言語で書かれた、魔法の書を読んでいる気分でした。こ、、、これ本当に日本語?これをどうやって理解しろというのだ!という怒りすら湧いてきた覚えがあります。
若さとは、内省の欠如でもあります。(あ、いまでもそうか)若者には「これを書いたやつが馬鹿だから、理解できんのだ」というふうに話が向かうわけです。馬鹿なのは自分なのにね。もう、解説本などイラン、本人の著書に直接当たるまでよとピックアップしたのが「存在と時間」。ほう、ふむ・・・ええと、これ、漢字と平仮名がまじっていて・・・日本語?で書かれているようなんですが?はて、ヒトコトも理解出来ないんすけど。ひょっとして、僕って馬鹿?(←ようやく気づいた?)、いや、そうだ翻訳が悪いんだ!翻訳者出てこい!!(←またかよ)と無残にも討ち死にしたのでした。
この最高に取っ付きにくい本の表紙のハイデガー自身、そもそもしかめ面していて、近づきにくい。こちらから思わず「シニョール、そんなしかめつらせずに、陽気に行こうぜガハハハ」と言いたくなってしまいました。もちろん相手は哲学者だから、おいそれとはニコニコできない複雑な事情がおありなのでしょう。本の表紙のハイデガー先生は相変わらずしかめ面なのでした。
その点、カント先生なんかはすっとぼけた顔していて、なんだか「スターウオーズのC3PO」みたいな感じで、「お、ちょっとはお近づきになれるかも!」と期待しましたがだめでしたね。(顔で判断するなっチューの)そのカント先生の著書も様々に手を出してみましたが、サーッパリわからん。基本的に「ええと、これ日本語でかかれてます?」というレベルですね。ぜーんぶ、討ち死に。実践理性批判、純粋理性批判、永遠平和のために(最後のはちょっとましだった)全部ダメ。本棚の飾り。つまりは友人から「お・・・カント読んでるんだ」と聞かれたときに「うん、まあね・・・」と答えるためのアイテムに成り果てたのでした。
それでも、「どうやら大事なこと言ってるらしいから読まねばならん」と、ドイツ旅行していた際は本屋でドイツ語で書かれた原著を買い求めたりさえしたんですよ。読めるわけないのにね。でもタイトルだけはよく覚えてます。Kritik der reinen Vernunft(純粋理性批判)でしょ。ほら、合ってた(と今手元の本を参照)。なんとなく、本場の言葉で読んだほうが分かりやすいかなあ?とぼんやり考えていたんです。それもこれもない知恵を絞って、偉い先生とちょっとでもお近づきになりたいと考えていたからなんですね。
そうこうするうちに月日は流れに流れ、はや20年(ああ、年月はかくも早くながれるものか!)再び、カント先生の本を紐解いております。きっかけはあのサンデル先生の正義に関する本ですね。あれ読んでから、ちょっとだけカント先生が分かった気になって、ちょっとだけ分かった気になったら、ちょっとだけ原著(といっても翻訳)読む気になりました。20年経ったから、ちょっとはお近づきになれるかも、という淡い期待を抱いたんですが、まだまだ難しいですね。ふうう、でも、まあちょっとづつ近づけているような気もします。まあ、気長に行きますよ、シニョール!